戦略的撤退だと思われたい

若者+京都+田舎+移住+古民家+シェアハウス-気合い=0

「編集=魔法」という魔法の方程式―藤本智士『魔法をかける編集(しごとのわ)』インプレス

最近読んだ本の紹介です。藤本智士『魔法をかける編集(しごとのわ)』インプレス。編集者を自称しているので、もう少し編集のことを学びたいと考えています。そこで、「編集」というキーワードに当てはまる本を複数冊購入し順番に読んでいて、そのなかの一冊です。発刊が2017年の7月なので最近出た本ですね。

 

編集本の多くは「著者との付き合い方」だったり「情報を整理する技術」みたいに、職業としての編集者スキルを、一般化したスキルとして提示する本が多い印象があります(このへんはまたまとめて書きたいと思います)。一方本著では、編集とは「ものごとを一過性に終わらせず未来のビジョンを実現する『魔法』」だとして話が進められます。それはとりわけ地方・ローカルという舞台における魔法として記述されています。

こういった書籍は「著者の主張に妥当性があった」などといった感想ではなくて、個人的に参考になるなと思ったことや、大事だなと思ったことを紹介したほうが有益でしょうから、いくつかそういった点を挙げていきたいと思います。

 

「僕にとっての編集の醍醐味は、著名な人をディレクションすることではなく、まだ世間のみなさんはご存知ないであろうスペシャルを、多くの人にお届けすること」(p74)

これまでに読んだ編集本の多くは「人脈をつくってつくってつくりまくって、有名な著者と知り合いになる。その人脈づくりこそが編集者だ」みたいなことが書かれていました。いわゆる大手出版社において、「先生」と呼ばれる人との関係づくりを良い本づくりのベースにするという「強い」価値観とはすこし違うフィールドのようです。地方が都市に対して弱者であるというのは一般的にみて、疑いようのない事実であると思います。そこで編集という魔法が弱者の味方として機能するのがとても共感できました。ぼくも、まだ知られていないスペシャルを伝えるということにとてもワクワクします。

 

で、具体的に地方で編集という魔法を導入してきた著者が語る問題点は実感が伴っていて、後進であるぼくにも注意を喚起してくれていて参考になります。

 

「だいたいどこの地方に行ってもそうなんですが、編集やデザインの業界にかぎらず、(中略)、ものづくりに真剣に取り組む若者ほど、役所に背を向けています。

それは、役所特有の公平性やら過剰なクレーム対策などに振り回され、理想のものづくりから、どんどんかけ離れていく現実を多かれ少なかれ経験しているからです」(p108)

「だから僕にとっての秋田での最初の仕事は、本当に優秀な地元のクリエーターたちが役所に向けた背中を、もう一度振り返らせることでした」(同頁)

著者が指摘するように、若者は役所(もしかすると、公共性が高い組織や保守的な民間団体も同様なのかもしれませんが)から背を向けようとする傾向にあるとぼくも感じています。著者は、そういった若者の傾向を単に批判するわけでもなく、そういった人たちの背中を振り返らせることの重要性を語っています。ほかの組織などとの距離感は、地方を舞台に活動するうえで必ず悩むポイントだと思うので、先駆者である著者の眼差しはとても参考になりました。

 

また、この本で良いなと思ったのは一見当たり前と思われているような考え方を疑ってみるという著者のあり方です。地方を舞台に活動する心構えというか姿勢について、発想の転換になる有用な言葉がいくつもありました。

人口にしても資源にしてもいろんなものが限られているなかで、「人口減=いけないこと」というレッテルを貼ることが果たして正しいことなのかという指摘もその一つです。自分たちの地方に何かを持ってくるということは、別の地方の何かを奪うことでもあります。著者はこうした限られたものをどのようにシェアして幸福になれるかこそが重要であるといいます。

また著者が秋田で地方活性に携わった際のありかたも非常に良いなと思いました。

「少子高齢人口減少ナンバーワンの秋田をなんとかしたいという気持ちなんて微塵もなくて、ただただ僕はすがるような思いで、秋田という未来ある町に寄りかかったんです」(p134)

何かのフォローをするという仕事は「してさしあげる」という立場になりがちですが、むしろ地域活性という取り組みを通じて自己実現の機会をもらっているという側面もあるわけです。このことについては、自覚的でいなければならないと改めて感じました。

 

編集という行為は、おそらく世の中に蔓延してしまっている「当たり前」を発想力とアイデアで好転させることだと思います。この本では、編集行為を魔法と言ってのけることでその素晴らしさや効果を的確に表現しています。このキャッチーな言葉に引き寄せられていくこと自体、ひとつの魔法的な編集術を体現しています。

 

そしてこの魔法の舞台としてローカルメディアについて語られるわけですが、うえのような原理原則は普遍的なものであると思います。