戦略的撤退だと思われたい

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写真家・野口里佳さんのトークイベントにいったよ

梅田の蔦屋書店で開催されていた写真家・野口里佳さんのトークイベントにいってきました。僕は存じ上げませんでしたが、写真家・アーティストの日下部一司さんという方が対談相手でした。日下部さんは先生でもあるようで、生徒さんがたくさん来られていました。

 

で、写真を勉強しているわけでもない僕がなぜこの野口さんのトークイベントにいったのかというお話からしていこうと思います。

 

僕は写真は全く素人ですが、昨年の夏に富士フィルムのX-T2を購入したところから、わりと撮影するようになりました。ふらふら街を歩いていて見かけたものや旅先の景色なんかをおさめるのはもちろん、仕事で取材にいったときにインタビュー風景を撮るのにも使ってたりします。ようは、記録としての写真と、自己表現としての写真の間を行き来しているわけなんです。
「せっかく買ったんだからうまくなりたい!」という気持ちがありつつも、「うまいってなんだ?インタビューも綺麗に撮影したいけど、それと表現としての写真は違うよな」なんていう疑問が浮かんでいたわけです。
カメラマンや写真家の作品にあまり触れていないのはどうだろうということで、面白そうな写真集を探していて、出会ったのが野口さんの「創造の記録」だったわけです。全く存じ上げない状態で本から先に知ったという感じなのですが、画角の隅にちょこんといるだけのはずの被写体(人物)の存在感がとても強くてビビッときたわけです。

 

そんなにわかの僕がわざわざトークイベントに行こうと思ったのは、「写真家のトークイベントって、どんな話になるんだろう?」という疑問からでした。「私は写真をとるときは、必ずこれを意識していてね」みたいなことなのか「今の社会がいかん!」みたいなことなのか。

 

ながながと書きましたが、ようやくトークイベントの感想に入るとですね、印象として「どうやって撮ったか」という話よりも「何を撮ったか」という話が多かったんですね。つまり技術の話ではなく、アイデアの話。
僕なんかはまだまだ勉強しはじめたばかりなので、「絞るとこうなる」とか「こういう構図をとるとこう見える」みたいなところばかりを気にかけていて、技術をもっと得なければということばかり意識してしまっていることに気づかされたような気がします。
さらにいえば、写真というのは「たまたまとった一枚がいいものだった」ということではなく、ある主題に対して自覚的に撮影を継続していって「自分は●●を撮影している人なんですよ」という態度というか、それこそ編集が大事なんだと思いました。あ、今更ですがここで書いていることは野口さんがそう言ってたというわけではなく、僕が勝手にそういうことを考えながら聞いていたというだけの話なので、あしからず。
お話の中で、展覧会というものへの意識がかなり強かったけれど、ここのところは本にするということについても考えが及ぶようになってきた、といっておられたのがまた印象的で。展覧会もそうですし本なんかは特に顕著で、やはりテーマと編集ということが写真にもつきまとうんだろうなと。

 

それから来場者の若い女性の方の質問が面白くて「写真を撮ったあとに、他人から『で?』って言われたりしませんか?」というような質問だったんです。これってニーズありきで何かを作っている人じゃない人たち(自己表現の人たちを筆頭に)が、必ずさらされることになる評価だと思うんですね。
これにたいしての野口さんの回答が軽やかで、とても素敵だなと思いました。野口さんいわく「『で?』って言われたら、『で、すごいでしょ』って感じ」。これは良いなと思いました。おそらく邪推するに、一貫したテーマや自分の中での疑問に対する模索を常にされていることと思うので、理屈を捏ねようとすれば「いやこれはこうこうで」って言えるんでしょう。でも、それを抜きにして「すごいでしょ」と言える胆力というか、自己表現への信頼というか。
僕は自己表現としての創作活動をしなくなって久しいのですが、これからまたしていきたいなと思う中で、「で、すごいでしょ」と言えるような表現かどうかを追求したいなあなんて感じました。