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絵とは、美とは−堀越千秋『美を見て死ね』A&FBOOKS

『美を見て死ね』。うーん、強烈なタイトルですね。近頃本を大量に買っているので、積ん読がたくさん残っているのですが、ふと立ち寄った本屋で見つけて思わず購入。
僕は絵画や美術はわからない人で、この方のことも知らなかったのですが、一昨年逝去されているようです。そのことがよりいっそうこのタイトルをセンセーショナルにさせています(元々は週刊朝日で連載されていたエッセイなので、後からつけたわけではなさそう)。

 

本著では、一見開きごとに一作品にまつわるエッセイが書かれており、著者が厳選した合計130点が紹介されています。僕みたいな素人が絵画や芸術品を眺めると「これは、なにがすごいんだろう?」とその価値がわからないことがよくあります。「そもそも、美ってなんなん?」と袋小路に迷い混むこともしばしば。美と画家が対峙したとき、どのような作品をどのような言葉でいいあらわすのか。

 

鉛筆一本で乞食になって生きたいと言うなら、真実を教えよう。エカキの素質とは何か? 二つしかない。①人の言うことを聞かぬこと。②金持ちであること。
…(中略)…美術的才能なんかいらない。そういう人はアカデミズムを継承する。変テコリンだけが「芸術」なのだ。(p32)

 

その身も蓋もない言葉に驚きます。時折このように自嘲気味に表現する人はいますが、画家でさえもこのようなカラッとした表現をしていることがとても面白い。では、絵そのものについては何と表現しているのでしょうか。

 

絵というのは、白い石膏像を黒い木炭で描くという矛盾におかれている。描くほどに暗く沈んでいくものだ。それを明るく乾いた張りのある画面にするのは、水面を沈まぬうちに歩いて渡るに等しい。(p60)

 本物の富士山やラクダったら凄い迫力ですぜ。かないっこない。ただそれを眺める人間の不思議さや哀しさを語れたら、かろうじて絵の存在意義があるんです。(p58)

 

著者が絵をどう捉えているのか、断片的ですが、なんとなくわかってきます。本著で語られる絵の本質は、矛盾を孕んだ行為です。

 

例えばよく言われる話ですが、写実画というものがあって、(おそらく)写真がない時代には絵の機能的価値として存在したんでしょう。それが写真の発明によって「それって撮影すればいいんじゃね?」ということになりました。すると「絵とは何なのか」と問い直す必要があります。思うに美や絵画は基本的に向かい風に晒されていて、その価値を削がれていきながらも、鋭く磨かれてきたものなのではないかと思います。

 

絵の力とは、「自分」を捨てる力なのだ。現代の病はガンじゃない。自分だ。…(中略)…。
諸賢! 絵は「自己表現や自分探し」なんかじゃない。「自分」というサングラスを捨てた澄明な世界の網膜なのだ。(p48)

 

衣食住がおおよそ保証されている社会では、「自分」「内面」とどう向き合うかが肝心だとよく言われます。絵を通じて、むしろ自分を捨てる。その視点に目から鱗が落ちました。絵そのものが諸発明や時代の変化に伴ってその価値を鋭角化させてきたように、自分を捨てていくことを通じて世界の本質に迫ることが絵の力ということなのでしょうか。