戦略的撤退だと思われたい

若者+京都+田舎+移住+古民家+シェアハウス-気合い=0

「続編」というハードル―BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-

みなさん、NARUTO読んだことありますか。僕は子どもの頃読んでいて、社会人になってからも結構好きだったので、会社で後輩が意見出してくると「わかるってばよお前の気持ち」とナルトの真似をして返事をしてました。
で、NARUTOってもう完結してるんですが、次世代編として、BORUTOって漫画が連載されてます。描いてるのは、NARUTOの作者のアシさんらしいですが、今回はそのBORUTOが続編として優秀で面白いという話をしたいと思います。

 

まずNARUTOのざっとしたあらましですが、忍者が活躍してる戦乱の世みたいな時代に、木の葉の里という場所のリーダー(火影)を目指すナルト少年の成長記です。とくに序盤ではアカデミー(学校)下忍中忍試験と、定められた仕組みのなかで出世?していく流れになります。
(もちろんそれだけで終わらないのがNARUTOの面白いところですが)続編であるBORUTOでも同じ仕組みが採用されています。主人公ボルトがアカデミーを卒業して、下忍、中忍試験と経験していく流れです。

 

ここで問題になるのが、「甲子園メソッド」と僕が勝手に呼んでいるものです。目標(甲子園にいく)があって、それまでのプロセスがある程度定められている。入学して合宿してメンバー選んで一回中間試験で日常会はさむ、んで夏の予選へ。みたいなやつですね。この場合、展開自体がフォーマット化されてしまうので、差別化するための仕組みが必要になります。
BORUTOの場合、自由にできる余白があったと思うので前作と同じような進め方をする必要は実はなかったはずです。しかし、あえてアカデミ~中忍試験という流れの甲子園メソッドに足を踏み入れた形になります。

 

で、BORUTOが甲子園メソッドのなかで差別化するということはずばり「ナルト少年とどう違うのか」を描くということになります。ナルト少年とボルト少年の差別化であり、ナルト時代とボルト時代の差別化です。
あえて単純化してNARUTOを表現すると「孤独と失われた家族の絆の物語」でした。天涯孤独のナルトと一族全員を愛すべき兄に殺されたサスケ。この二人が物語のキーとなって、多くの登場人物の孤独が晴れ、家族の絆が取り戻されていきます。

 

BORUTOではそうはいきません。ボルトには両親もいれば家族もいるし友達もいる。里も平和で才能もあり、みんなから一目置かれています。さらにサスケの位置付けのキャラクターになるかもしれない?サラダにしても同様です。
これは第四次忍界大戦というNARUTO時代に終結した戦争以降実現した平和な社会にあって自然かもしれません。ゲームや漫画で続編を出すときに安易に1で実現した平和を壊すことで2を作り出すというパターンがありますが、BORUTOの場合はわりと丁寧に続編を作ってると言えるかもしれません。平和になった世界を描こうとするからこそBORUTOには別の問題が起きて、NARUTOと差別化できているからです。
バトル漫画である以上、今後世界を揺るがすような大きな危機も訪れるとは思いますが、思い切って少年編をNARUTOとの違いを描くことに焦点をあてて描いているようにも思います。少年期のBORUTOのテーマはおおよそ「反抗と世代交代の物語」と言えるかもしれません。これはNARUTOでは描くことができなかったテーマです。

 

大ヒットした漫画の続編としてBORUTOが求められることはすごく大きいと思います。前作の主人公の扱い方についても、わりと面白い議論ができる分野だったりします。これまであえてBORUTOを読む気はしなかったのですが、NARUTOという巨大な前作があるからこそ、それを前振りに面白い物語が読めるかもしれないので、これからも楽しみにしたいと思います。

 

 

俺の能力は光を操る力だ その2(CPL、ハーフNDを買いました)

カメラ用のアイテムとして、CPLとハーフNDを買いました。ブログに書くためタイトルを考えていると、以前ストロボライト(スピードライト)を買ったときと同じのが思い浮かんだのでその2ということにしました。

ちなみに買ったのは、CPLが「MARUMI PLフィルター EXUS サーキュラーPL 62mm」、ハーフNDが「cokin 121S」。


遠回りな話ですが、やっぱりカメラは光は大事なんだなということを再認識したという小話もしつつ。
それぞれなにかという説明をするんですが、まずCPLはcircular polarizer lens filterの略と思われます。circularは円、polarizerは偏光板という意味で、ぐるぐるまわるレンズになっていてそれをまわして調整することで偏光させるというフィルターですね(こちらもよく理解していないのがよくわかる説明)。
簡単にいうと、偏光させることで光の反射をおさえ彩度を調整したりガラスや水面の反射を弱めることができるという代物。ちなみに僕が買ったやつは1万円くらいしたんですが、安いものは数千円からあるようです。ただ安いと効果が弱かったりレンズ部分が分厚かったり、明るさが落ちたりするようです。

 

購入して感じたのは「たまにすごいけどよくわからんくて難しい」ということ。主光源との関係性によって効果が変わるらしく逆光だとあまり効力がないとかなんとか。使って撮った写真はこんなかんじ。

 

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桜はCPL使える!ということらしい。というのも、花びら一枚一枚が色が淡いので光を反射しやすく、それを抑えることができるかららしい。ただきれいはきれいなんだけど、僕の撮影したものはCPLの効果なのかはよくわからないという。自分が撮影したものをみてみたときに、ぶっちゃけCPL使ったものなのかどうかわからないという恥ずかしい感じ。

 

その一方でわかりやすいのが水面で、きらきら水面が反射するのを抑えてくれるので水中がくっきりうつる。これは写したいもの次第で便利な気がする。こんなかんじ。

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light roomでの後処理とどう影響しあうのかわからないので、とりあえず撮って出し。魚がちゃんと写ってますね。

 

あとハーフNDは、以前買ったNDフィルターのように減光させるためのフィルターなんですが、上半分だけがグラデーションで暗くなるように作られています。これはわかりやすいんですが、空と人みたいな画の場合に空だけが白飛びしちゃうのをうまく抑えることができます。

 

f:id:nigerugakati39:20180401164446j:plainこの写真なんかは普通に撮れちゃいそうな気もしますけどね…。一応、空もちゃんとでてて、手前の風景も適正な明るさで撮れてますっていう。CPLも一緒に使ってると思います。

 

とまあ、こんな感じですね。あんまりうまくできていませんが、引き続き勉強していきたいなあと思います。

愛の物語として機能するたくさんの物語属性―高橋那津子『昴とスーさん』1巻

数年前までは毎週のように大量の漫画を買っていたのですが、ここのところあまり買わなくなってしまいました。自分が好きで買っていた漫画も何巻まで買っていたかもわからなくなったので途中でとまってしまったり。

 

で、久しぶりに友人と本屋さんの漫画コーナーを一時間ほど回遊し、数冊面白そうだと思った漫画を買うという遊びをやって、購入したのが今回紹介する漫画、高橋那津子『昴とスーさん』1巻。
これが、また色んな漫画を読みたいなあと思わせられる良作でした。ちょっと詳しく紹介していきます。

 

まず僕の悪いところなんですが、漫画を買うとき作者と絵柄、そんであらすじをみたあと、出版社と掲載誌をみて「ああ、こういう感じの話なのかな?」と勝手に判断して買わないでいるということが非常に多いんです。

 

そんな僕の色眼鏡によると、エンターブレインは死ぬほど好きなんですが、ハルタの「ちょっと書き込みとか丁寧に描いてますよ」系の漫画は敬遠することが多くて。良い悪いではなく好みの話ですよ。
そんなわけでこの漫画も敬遠するところだったんですが、まあせっかくなので手に取ろうとすると、横に少しだけ立ち読みできる小冊子があったので読んでみたんです。
読めるのは一話(の途中。なんであそこで切られてたのかはよくわからない)だったんですが、結構面白くて。あと興味がわいたんですよね。

 

それで一巻購入して読んでみたんですがやっぱり面白い。ただこの漫画の面白さがどこにあるのか自分でもなかなか掴みきれないでいたんですが、おそらく「おいしい設定をたくさん詰め込んでいること」なんですよね。

 

若干ネタバレする(帯に書かれてるレベルですけどね)と、この漫画は一見、姉・澪(大人)と弟・昴(小学生)が一緒に住んでいる兄弟の日常漫画です。が、実は弟ではなく「何らかの外的要因によって、外見だけが子どもに戻ってしまった恋人」なんですよね。コナンくん的なあれですな。

 

この時点で「おねショタもの」「恋愛もの」のおいしい設定が含まれています。しかも、読んでいるとわかるのですが、実はこの二人は「幼馴染」です。それから、二人がきっちりとした恋愛関係になったのは最近のことらしくドキドキ初めての「同棲もの」でもあります。
昴は小学生のような外見になってしまったので外で働くことはできません。なので、澪が働いている間に、スーパーにいって魚屋さんでアジを買いにいって竜田揚げを作るような「主夫もの」「(ちょっとだけ)グルメもの」でもあります。
さらに昴が外を歩いていたりすると、地元の小学生やイケズな高校生と対峙することもあります。そこの展開では「強くてニューゲームもの」にもなりますし「子どももの」にもなります。
そして何より、一番おいしいのが「SFもの」でもあるということですね。つまり「なぜ昴は小さくなってしまったのか」「どうすれば元に戻れるのか」というストーリー。

 

これだけの要素を詰め込むのはすごく難しいことで、下手をすれば「やりすぎ」になります。というか普通そうなる。この漫画がうまいのは、全ての内容が「恋人が子どもになってしまったら」という一つの事象にきちんと紐づけられて枝分かれした展開になっていることです。そして全ての展開が二人の「変わらぬ愛」を証明するものとして機能していること。
例えば、「おねショタ」ものは、小さくなってしまったという現状を受け入れ、二人が一緒に生活していくうえで、社会上必要なふるまいとして登場します。わざわざ昴が不審がられるというリスクをおかしてスーパーに出かけるのは、仕事が遅くなる澪に美味しい料理を振る舞いたいからです。そしてそのために昴は、小学生らしい服装に着替えたり、澪を「お姉ちゃん」と呼ぶのです。

 

それから、情報を出し過ぎない、せっかちに状況を説明しないこと(それでも、うまく描ける著者の漫画力)もたくさんの魅力を一つの漫画で成立させようとするうえで役にたっています。
例えば、「小学生に見える昴が実は大人である」ということの明かし方。一話の最後にふと男らしい態度を見せた昴の背中に、大きな男の人の背中が重なってみえるという演出。からの二人の写真。
例えば、「どういう状況で昴が子どもになってしまったのか」ということの明かし方。その時の状況を再現することで元に戻れないか二人で試しにいく。その場面と当時の状況が重なりながら、理由が明らかになります。このシーンは一巻の最後なんですが、状況説明させるためだけには止まりません。二つの時間軸を交差させながら、昔といまの二人の変わらぬ愛を描くラストシーンはお見事としかいえないほど美しい。

 

久しぶりに良いなあと思った本作。そう遠くない時期に二巻が出るんじゃないかなあという気がするので、ぜひ読んで見てください。

勝手にただの冊子品評会

仕事柄、冊子が好きです。商品のパンフレットもそうだし、ブランドムックみたいなのも大好き。そんなものまで冊子にまとめるかみたいなものも良いなあと思うし、それはまとめといて欲しいよなみたいなものも好きです。

 

このあいだ東京にいったこともあって、色々と冊子ものを集めてきたわけなんですが、今回はその中でも「ただのもの」に限って良いなあと思ったものを紹介していきます。
特に気に入ったものだけ紹介しますが、勝手に賞をつけていきますね。

 

勢いよくて派手なのに綺麗で賞

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国立民族学博物館の、展示の冊子(四つ折り)ものです。印象的な仮面にごつい書体、斜めに入ったポップなオレンジベタとずいぶん派手なんですが意外と綺麗にまとまってます。

f:id:nigerugakati39:20180213013457j:plainどうせ表紙だけなんでしょと思いきや、中身も綺麗にまとめつつ、動きのある紙面にしていてとてもみやすい。デザインと合ったキャッチーな見出しで引きつけて、きっちりみんぱくの魅力を語ってくれている印象がありますね。

 

ブランドの表情がよくわかる王道な賞

むりやり賞にするときは「で賞」とするのが定番ですが、「な賞」になってしまって少しもじもじします。

f:id:nigerugakati39:20180213013745j:plain兵庫県で作られているマッチっぽいお香のストーリーブック。どういうブランドなのかをきっちり冊子のデザインから一本貫かれたトーンで語ってくれています。

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写真が綺麗なので許される全面写真と角版の組み写真。きっちり綺麗ですね。あとさりげないブツ撮りの技も盗みたいところです。

 

まさかそこがオシャレとは賞

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意外とお気に入りの一冊。Zoffのレンズガイドがあって、それがおしゃれだなんて想像できましたか?レンズごとの特徴をうまくイラスト化しつつ、楽しく読める冊子に仕上がっています。

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f:id:nigerugakati39:20180213014356j:plainレンズを缶に入れてイラストにするというアイデアは絶妙ですね。本当にそれが一番よい手段なのかどうか含めて、僕には(ぱっと見)わかりませんが、おそらくレンズというものは紹介しづらいもので、それをみんなにわかりやすく読んで欲しいという思いが込められていそうな気がして気に入ってます。

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今回はここまで。本当はもっとたくさんあるんですが、また機会があればご紹介したいと思います。左びらきで横書きの冊子が中心となりました。完全なる趣味ですが、勉強になることがたくさんありました。

写真家・野口里佳さんのトークイベントにいったよ

梅田の蔦屋書店で開催されていた写真家・野口里佳さんのトークイベントにいってきました。僕は存じ上げませんでしたが、写真家・アーティストの日下部一司さんという方が対談相手でした。日下部さんは先生でもあるようで、生徒さんがたくさん来られていました。

 

で、写真を勉強しているわけでもない僕がなぜこの野口さんのトークイベントにいったのかというお話からしていこうと思います。

 

僕は写真は全く素人ですが、昨年の夏に富士フィルムのX-T2を購入したところから、わりと撮影するようになりました。ふらふら街を歩いていて見かけたものや旅先の景色なんかをおさめるのはもちろん、仕事で取材にいったときにインタビュー風景を撮るのにも使ってたりします。ようは、記録としての写真と、自己表現としての写真の間を行き来しているわけなんです。
「せっかく買ったんだからうまくなりたい!」という気持ちがありつつも、「うまいってなんだ?インタビューも綺麗に撮影したいけど、それと表現としての写真は違うよな」なんていう疑問が浮かんでいたわけです。
カメラマンや写真家の作品にあまり触れていないのはどうだろうということで、面白そうな写真集を探していて、出会ったのが野口さんの「創造の記録」だったわけです。全く存じ上げない状態で本から先に知ったという感じなのですが、画角の隅にちょこんといるだけのはずの被写体(人物)の存在感がとても強くてビビッときたわけです。

 

そんなにわかの僕がわざわざトークイベントに行こうと思ったのは、「写真家のトークイベントって、どんな話になるんだろう?」という疑問からでした。「私は写真をとるときは、必ずこれを意識していてね」みたいなことなのか「今の社会がいかん!」みたいなことなのか。

 

ながながと書きましたが、ようやくトークイベントの感想に入るとですね、印象として「どうやって撮ったか」という話よりも「何を撮ったか」という話が多かったんですね。つまり技術の話ではなく、アイデアの話。
僕なんかはまだまだ勉強しはじめたばかりなので、「絞るとこうなる」とか「こういう構図をとるとこう見える」みたいなところばかりを気にかけていて、技術をもっと得なければということばかり意識してしまっていることに気づかされたような気がします。
さらにいえば、写真というのは「たまたまとった一枚がいいものだった」ということではなく、ある主題に対して自覚的に撮影を継続していって「自分は●●を撮影している人なんですよ」という態度というか、それこそ編集が大事なんだと思いました。あ、今更ですがここで書いていることは野口さんがそう言ってたというわけではなく、僕が勝手にそういうことを考えながら聞いていたというだけの話なので、あしからず。
お話の中で、展覧会というものへの意識がかなり強かったけれど、ここのところは本にするということについても考えが及ぶようになってきた、といっておられたのがまた印象的で。展覧会もそうですし本なんかは特に顕著で、やはりテーマと編集ということが写真にもつきまとうんだろうなと。

 

それから来場者の若い女性の方の質問が面白くて「写真を撮ったあとに、他人から『で?』って言われたりしませんか?」というような質問だったんです。これってニーズありきで何かを作っている人じゃない人たち(自己表現の人たちを筆頭に)が、必ずさらされることになる評価だと思うんですね。
これにたいしての野口さんの回答が軽やかで、とても素敵だなと思いました。野口さんいわく「『で?』って言われたら、『で、すごいでしょ』って感じ」。これは良いなと思いました。おそらく邪推するに、一貫したテーマや自分の中での疑問に対する模索を常にされていることと思うので、理屈を捏ねようとすれば「いやこれはこうこうで」って言えるんでしょう。でも、それを抜きにして「すごいでしょ」と言える胆力というか、自己表現への信頼というか。
僕は自己表現としての創作活動をしなくなって久しいのですが、これからまたしていきたいなと思う中で、「で、すごいでしょ」と言えるような表現かどうかを追求したいなあなんて感じました。

 

いいぞもっとやれ!龍谷ミュージアム

近くのカフェで見かけた龍谷ミュージアムの展覧会の紹介チラシ。1月9日から2月12日まで、3月3日から3月31日まで開かれている「マンダラのほとけと神」。

 

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最初どこでやってるのわからず手をとったのですが、マンダラを上部にあしらったチラシがとてもセンスフルですよね。で、龍谷ミュージアムでやってるんだー!と気づいたあとに、思い出したのが昨年開かれていた「地獄絵ワンダーランド」。この展覧会には実はいってまして、そのときもチラシを見て「なんじゃこれ、おもしろそう!」と感じたんですよね。

 

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地獄というキーワードが単純に面白いということももちろんあったのですが、それを飛び越えて、デザインとして成立していることや目のつけどころ、展覧会としての見せ方が非常にうまいと思うんですよね。

 

僕は仏教のことはもちろん知りませんし、あんまり美術そのものや展覧会も行かないので、明るい人たちからするとどうなのかはわかりません。ただ、美術素人ながら「面白そうな企画」は行って見たいという僕みたいな人のアンテナにもひっかかるように企画しているところがすごいと思います。飾っている作品そのものももちろんだとは思いますが、企画している人がすごく面白い人なんだろうなあと思っています。

 

そのうち暇を見つけて遊びに行こうと思います。

 

 

 

絵とは、美とは−堀越千秋『美を見て死ね』A&FBOOKS

『美を見て死ね』。うーん、強烈なタイトルですね。近頃本を大量に買っているので、積ん読がたくさん残っているのですが、ふと立ち寄った本屋で見つけて思わず購入。
僕は絵画や美術はわからない人で、この方のことも知らなかったのですが、一昨年逝去されているようです。そのことがよりいっそうこのタイトルをセンセーショナルにさせています(元々は週刊朝日で連載されていたエッセイなので、後からつけたわけではなさそう)。

 

本著では、一見開きごとに一作品にまつわるエッセイが書かれており、著者が厳選した合計130点が紹介されています。僕みたいな素人が絵画や芸術品を眺めると「これは、なにがすごいんだろう?」とその価値がわからないことがよくあります。「そもそも、美ってなんなん?」と袋小路に迷い混むこともしばしば。美と画家が対峙したとき、どのような作品をどのような言葉でいいあらわすのか。

 

鉛筆一本で乞食になって生きたいと言うなら、真実を教えよう。エカキの素質とは何か? 二つしかない。①人の言うことを聞かぬこと。②金持ちであること。
…(中略)…美術的才能なんかいらない。そういう人はアカデミズムを継承する。変テコリンだけが「芸術」なのだ。(p32)

 

その身も蓋もない言葉に驚きます。時折このように自嘲気味に表現する人はいますが、画家でさえもこのようなカラッとした表現をしていることがとても面白い。では、絵そのものについては何と表現しているのでしょうか。

 

絵というのは、白い石膏像を黒い木炭で描くという矛盾におかれている。描くほどに暗く沈んでいくものだ。それを明るく乾いた張りのある画面にするのは、水面を沈まぬうちに歩いて渡るに等しい。(p60)

 本物の富士山やラクダったら凄い迫力ですぜ。かないっこない。ただそれを眺める人間の不思議さや哀しさを語れたら、かろうじて絵の存在意義があるんです。(p58)

 

著者が絵をどう捉えているのか、断片的ですが、なんとなくわかってきます。本著で語られる絵の本質は、矛盾を孕んだ行為です。

 

例えばよく言われる話ですが、写実画というものがあって、(おそらく)写真がない時代には絵の機能的価値として存在したんでしょう。それが写真の発明によって「それって撮影すればいいんじゃね?」ということになりました。すると「絵とは何なのか」と問い直す必要があります。思うに美や絵画は基本的に向かい風に晒されていて、その価値を削がれていきながらも、鋭く磨かれてきたものなのではないかと思います。

 

絵の力とは、「自分」を捨てる力なのだ。現代の病はガンじゃない。自分だ。…(中略)…。
諸賢! 絵は「自己表現や自分探し」なんかじゃない。「自分」というサングラスを捨てた澄明な世界の網膜なのだ。(p48)

 

衣食住がおおよそ保証されている社会では、「自分」「内面」とどう向き合うかが肝心だとよく言われます。絵を通じて、むしろ自分を捨てる。その視点に目から鱗が落ちました。絵そのものが諸発明や時代の変化に伴ってその価値を鋭角化させてきたように、自分を捨てていくことを通じて世界の本質に迫ることが絵の力ということなのでしょうか。